日本百名曲 -20世紀篇-

20世紀の日本の歌曲から、独断と偏見による日本100名曲を紹介(500名曲もやるぜよ)

『喝采』 ちあきなおみ ~ タイトルがいいよね。曲の最後に拍手が聞こえてきそう。

いつものように──Macugaマクーガ Arekeyアーキー (誰?)
※意味はありません

まったく意味の無い雰囲気だけの上記の一文は単なる悪ふざけとして無視してもらうとして(だったら書くな)、表題曲でまっさきに思い浮かぶのは、コロッケのモノマネ顔だったりして大変いけない。
ちあきなおみが比較的若く引退した*1からだな。きっと。
ちあきなおみが歌う映像を見る機会よりも、コロッケのぶっとんだ『喝采』を見る機会の方がどうしても多いんだもの。せっかくの名曲に水を差すようで残念ではあるものの、多くの人に認知されるきっかけにはなっていると思う。



それもこれもともかくとして、歌謡曲史上、最も衝撃的と名高い歌い出しがこれ。

「♪いつものように幕が開き 恋の歌 歌う私に
         届いた報せは 黒いフチ取りがありました」

華やかな夢の舞台から一転、抗えない現実にぶち当たる衝撃。
主人公は呆然自失として、かつての恋人の葬儀に駆け付ける。

・・・まあ、このシチュエーションは、実際にはほとんど有り得ないんだけどね。
というのも、黒い枠線付きのはがき、いわゆる「喪中はがき」は、あくまで年始の挨拶ができないことを詫びる旨を記した欠礼通知であって、死亡通知ではない*2からだ。

年末差し迫った際に、死亡通知を兼ねて喪中はがきを出すという、欠礼に無礼を重ねてしまう横着者も少なからずいるものの、葬儀の通知としてこれを使用することは、およそ見かけない。
何故なら、葬儀は予定してできるものでは無いうえに、死去後速やかに執り行うのが一般的なため、訃報を悠長に手紙で知らせることはあまり無いからだ。
そんなことしてたらホトケさんが腐っちまうわ。


なお、「♪動き始めた汽車に 一人飛び乗った」り、「♪教会の前に佇み 喪服の私」など、
ちょっと異国を思わせるような描写がみられ、一瞬、これって外国を舞台にした歌だろうか?と思いそうになるが、件の黒のフチドリを思い出し、ああそういえば日本だったね、と引き戻される。



いや、別に上げ足を取ろうとしているわけではないのだよ。
これらのシチュエーションは、言葉から得られる印象を、いかに聴き手にビジュアル的なイメージをもって落とし込むことが出来るか。
それを追求した意図的なものであると、あからさまに見て取れるからだ。

黒い縁取りの手紙、
動き始めた汽車に飛び乗る主人公、
鄙びた昼下がりの街、
蔦が絡まる白い壁、
長く伸びる細い影、
暗い待合室、
そして、緞帳が上がり降り注ぐスポットライト。


いかにもな印象的な光景をちりばめているからこそ、言葉を聞くだけでイメージがわき上がってくる。非常に効果的だ。
先に挙げた揚げ足取りのように舞台背景を深く考える方が、間違いなのだ。


ツタが絡まる詩──Royロイ Carbayカーベイ (誰よ?)
※意味はありません。字面と音の雰囲気のみお楽しみください

喝采 [EPレコード 7inch] シングルジャケット/amazonより
  • 作詞 吉田旺、作曲 中村泰士、編曲 高田弘
  • 1972年(昭和47年)9月10日、日本コロムビアより発売
  • オリコン12週連続2位(年間4位/1973年)
  • ちなみに、『喝采』の1位を阻み続けたのは、16週連続週間1位、2年連続年間1位という異常な記録をたたき出した、宮史郎『女のみち』(1972年/)。何がそこまでウケたのか正直不明な迷曲だ。
  • 歌詞は歌ネットへ:ちあきなおみ 喝采 歌詞 - 歌ネット
  • 曲にまつわる背景などはwikipediaにくわしい:喝采 (ちあきなおみの曲) - Wikipedia


  • ところで最近、うちのスピーカーがイカレはじめて、左右どちらかの音が聴こえなくなる事態が頻繁している。
    それで気づいたのだが、表題曲は左のチャンネルからはドラム・ベース・エレキギターの三つ揃いが流れ、右のチャンネルからは、アコースティックギター、オルガン、トレモロ奏法のエレキギター*3が流れてくる。
    そのように楽器をくっきりと分けて録音されており、反対側のスピーカーからはほとんど聴こえない*4。ボーカルとストリングスだけが中央(左右両方)から聴こえてくる。
    そのせいで音の分離がいいからか、それぞれの音がやけに独立して聴こえてくるのだ。

    ひと気のないチャペルに、厳かに響く讃美歌のように、オルガンは静謐なたたずまいを見せ、坦々としたベースやドラムは必要以上に歌い上げることをしない。
    ちあきなおみの歌唱は、一抹の寂しさを含みつつも、悲しみに暮れることはない。


    淡々と、いや、この場合粛々と言った方がいいだろうか。
    劇的な物語と裏腹に、歌唱も伴奏も、さらりと流れていく。

    これが森進一あたりが歌っていたら、号泣しながら歌い上げるのだろうが、感情を押し殺している分、無常感がより際立っている。


    似たような題材を扱った、沢田知可子の『会いたい』(1990年/)が、
    「♪低い雲広げた冬の夜 あなた夢のように死んでしまったの」
    と直接的に死を告げ、悲壮的な歌唱を見せるのと、実に対照的だろう。



    ひなびた街の灯──Ruthaルーサ Garlyガーリー (だから誰よ?)
    ※意味はありません。字面と音の雰囲気をお楽しみいただければ幸いです



    意味が知りたい★ここんとこ 深読み&ななめ読み

    暗い待合室
    教会に棺対面や焼香待ちの待合室があるとは思えないので(基督教式の葬儀に参列したことがないので詳しくは知らないが、実はあったりして?)、おそらく教会から場面変わって、帰途の駅での待合室の場面だろう。

    どこからか流れてくる、自らが歌う明るい恋の歌を耳にする主人公。
    「♪たとえっば わたしっが 恋っを 恋をするっなぁら~」
    (『四つのお願い』 ちあきなおみ/1970年/
    なんかがそれっぽい。

    人もうらやむような「恋物語」を手に入れた自分と、まるでそれと引き換えのように、一度捨てた「本物の恋」を永遠に失くした自分が余計に対比されている。


    ひなびた街
    ひなびた、という表現は、意味や言葉自体をまったく知らないか、「しなびた」と混同されているか、どちらかであることが多い。

    「鄙びた」とは、田舎じみた、というような意味で、寂れた、という言葉に近いが、それよりももう少し温かい視線をもった表現だ。
    趣のある、レトロな、カントリー調の、という表現の方が感覚的には近いかもしれない。

    だけど、ここでいう「鄙びた街」を今風に言うならば、「パッとしない街」という表現になるんだろうなぁ。




    現在入手可能な音源

    【オリジナルアルバム】
    [asin:B0D9KB88YN:detail]




    脚注

    *1:【比較的若く引退した】1992年、44歳で夫の死別を機に引退。実質20年ちょっとしか芸能活動していないのはちょっと意外。

    *2:【死亡通知ではない】その証拠に、いつ誰が何歳で亡くなった、ということは書かずに、「喪中のため年末年始のご挨拶は控えさせていただきます」とだけ書いてある既製の喪中はがきも少なくない。

    *3:【トレモロ奏法】マンドリンのように、一定のリズムで小刻みに上下に弦をはじいて音を出す奏法。エレキギターではあまり見ないやり方だ。

    *4:【反対側のスピーカーからはほとんど聴こえない】正確を期すと、オルガンはサビの最後の部分で多重録音になっていて、その部分だけは反対のスピーカーから聴こえるが、弾いているのが別パートなので、やっぱり同じ音は反対のスピーカーからは聴こえないのだ。