どこまでも、上がっていく音階の歌唱。
どこまでも、ヒートアップしていく演奏。
歌いだしからクライマックスまで、
この歌唱と演奏の二つが
螺旋のように絡み合い上り詰めていく。
まさに圧巻。
ん~、あふれる思いが強すぎるのか
うまく文章で表すことができない。
自分の中では5本の指に入るくらいの、屈指の名曲だと思っている*1。
しかし、「♪さぁ 眠りなさい~」とやさしく始まる割には
次第に歌い手がエキサイトしてしまって
これではとてもじゃないが眠れない!
ところで、タイトルの『聖母たちのララバイ』だが、
なぜ、聖母(ここではマドンナと読ませている)「たち」と
複数形になっているのだろうか。
「マドンナ」以外の語句は歌詞中には登場しないので、
おそらく曲ができてから後付けされたタイトルだろうと思う。
「聖母」という字があてられたのもその時かもしれない。
「たち」を入れた方が言葉の響きがいいことは確かだが、
「♪いつも私は あなたを遠くで見つめている 聖母」
歌詞中には、女性は主人公一人しか登場しない。
しかし、「たち」を抜いて「聖母のララバイ*2」では
聖母マリアの子守歌、という意味になってしまう。
おそらくそのためだろう。すでに歌詞中に使用している
「マドンナ」という語句を違和感なく受け入れられるように、
女性が持つ、”普遍的な母性”の象徴としての「聖母」
という意味合いを持たせるため、
女性一般をさすように「たち」をつけた、という推測が成り立つ。
それ以前に、「♪私は、、マドンナ」
というのは、何かとまずかろう
という判断が働いたのかもしれない。
女性は一人しか登場しない、と書いたが
「♪男はみんな 傷を負った戦士」
男は複数登場している。
男たち一人ひとりに、
弱い部分を見せることで、母性をくすぐられた、
聖母がいるのかもしれない。
名曲・聴きドコロ★マニアックス
この曲を語るうえで避けて通れない部分なのでここで触れておく。
この曲の作曲者「木森敏之、ジョン・スコット」と連名になっている点だ。
これは発表後に盗作の指摘があったことに由来する。
問題の『Laurel And Owens』(1980年/ by
)と聴き比べると、
たしかに、Aメロがそっくりだ。
これが故意の盗作*3か、偶然の一致か、潜在意識下の引用*4か、
どれが正しいのかはここでは置いておいて、
この問題が勃発したときは、名を捨てて実を取る対応が行われたことに着目したい。
通常は、プライドを守るため、そして
言いがかりだという気持ちを前面に押し出して
降りかかる火の粉は払いのけるのが通常の対処だ。*5
しかし、この争いでは、訴えられた側がいともあっさりと折れた。
争えば、勝つにしろ負けるにしろ販売に影響も出るだろうし、
場合によっては販売差し止めになる可能性だって無くはない。
ブームが去ってもなお、裁判だけが延々と続く、
なんて事例も過去にいくらでも見受けられる。
そこを、訴訟人を共作者のひとりとしてクレジットすることで、
曲が売れるほど訴訟人にも利益になるように和解を成立させた。
敵対するのではなく、むしろ味方に引き入れて
バックアップさせる道を選んだのだ。
もちろんこのことは、盗作を公に認めることとなるので
作者側の名誉は相当損なわれる。
しかし、『聖母たちのララバイ』という曲にとっては、
足を引っ張るものがなくなるので、
これが一番良い幕引きだったのだろう。
意味が知りたい★ここんとこ 深読み&ななめ読み
「できるのなら 生まれ変わり あなたの母になって」
屁理屈をこねれば、女性の方が生まれ変わっても、母になることはできない。
男が生まれ変われば、女性が母になることもあるかもしれない。
「可能であれば、あなたを殺して、生まれ変わりのあなたを産んでみせる。」
こわい。
「この街は戦場だから 男はみんな傷を負った戦士」
短絡的に、戦地での歌、と思ってはいけない。
この街を戦場としてとらえると、男はみんな戦士なんだ。
という意味。
本当に戦場であれば、「戦場だから」
という前提条件を付けるはずがない。
世間でもまれる男が、ふと見せた涙を見て
恋愛よりも強い、母性の愛で包み込もうという
主人公の決心を表した曲。
「♪この街は 扇状地だから~」
とおもわず歌ってしまうのは、大変良くない。
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