夏のうたがノスタルジックになったのは、いつからなのだろうか。
夏の歌といえば、大人も子どもも恋人も、
夏だぜ海だぜ騒ごぜイエイ、てな開放的な感じではなく、
夏の日の思い出を、優しく、ときに切なく歌い上げる曲が
日本の歌には特に多い気がする。
「♪麦わら帽子はもう消えた 田んぼの蛙ももう消えた それでも待ってる夏休み」
『夏休み』(よしだたくろう/1971年/ by)、
「♪胸元が揺れたら 雫が砂に舞い 言葉もないままに あきらめの夏」
『夏をあきらめて』(研ナオコ/1982年/ by) 、
「♪夏が過ぎ風あざみ 誰の憧れに彷徨う 青空に残された 私の心は夏模様」
『少年時代』(井上陽水/1990年/ by)、
「♪こらえきれなくてため息ばかり 今もこの胸に 夏は巡る」
『真夏の果実』(サザンオールスターズ/1990年/ by)、
「♪さよなら夏の日 いつの日も忘れないよ 雨に濡れながら 僕らは大人になってゆくよ」
『さよなら夏の日』(山下達郎/1991年/試聴はこの先から)、
「♪I love youから始めよう想い出は作るもの もう一度やり直せそう 夏を待ちきれなくて」
『夏を待ちきれなくて』(TUBE/1993年/ by)、
「♪いつも君と待ち続けた季節は 何も言わず通り過ぎた」
『Hello,Again~昔からある場所』(My Little Lover/1995年/ by)、
「♪君がいた夏は遠い夢の中 空に消えてった打ち上げ花火」
『夏祭り』(whiteberry/2000年/ by)など、
挙げだすと、これだけで記事が書けるほどきりがない。
そのうち番外ででも書こうかな。
その反面、洋楽にノスタルジーはあっても、それが夏に結びつくものが少ないのは、*1
学年の真っ最中に「夏休み」があるのとないのの違いではないかと思う。
4月に学年が変わる日本と違い、欧米諸国は1年で最も長い夏休みの前後で
学年が変わる国の方が多いらしい。実に合理的だね。
かといって、日本もそれに倣えばいいかというとそうでもないと思う。
夏ではなく春に学年が変わることによって生じる風習や文化もあるのだから。
人生の節目とは全然関係ない部分に、
断層のような、ぽっかりとした空白の時間が生じているために
非日常の、印象的な時間と物語が生み出されているのだろう。
話を『想い出の渚』に戻す。
というより始まってもいなかった!
ワイルドワンズは、加山雄三の弟分、のような立ち位置にあるせいもあり、
グループサウンズのくくりに入れられることが多いが、
メンバー自身よる作詞・作曲・演奏で、現在でいうバンド形態にきわめて近いグループだ。
ビートルズの影響で、当時ブームとなった「グループサウンズ」だが、
その名称とは裏腹に、サウンドを倣ったものではなく、
「アイドルとしてのビートルズ」に倣った部分が多く
今聞いてみると、職業作家による楽曲を消化不良なアレンジで料理した、
「惜しい」曲が大変多い。
そんな中、この頃になってようやく、このワイルドワンズやフォーククルセダーズのような、
完成度の高い「バンド」が現れるようになった。*2
サウンド的には、まず12弦ギター*3によるイントロ、リフ、間奏が印象的に使われている。
そして、ギター片手に作ったと思われる、半音*4を用いたメロディーが
効果的に使われるようになったのも、この頃からだろう。
メインボーカルのヴォリュームが弱く、時には演奏やコーラスに紛れてしまう。
ボーカルを前面に押し出す曲が多い時代の中、
このあたりにも、サウンドの方向性に多様化がみられはじめた感がある。
そんな、まさに、今につながるギターサウンドが、生まれつつあった時代。
この珠玉のメロディーが出現したのだった。
意味が知りたい★ここんとこ 深読み&ななめ読み
特筆すべき歌詞はない。
というよりも具体性が全くない。
「君」も、
「渚」も、
何もかもが具体性を帯びておらず
聴く者それぞれが、それぞれの
「君」や「渚」そして「あの夏の日」
を思い描く。
わざとか、天然か。
いかに?
現在入手可能な音源
やっぱ生で聴きたい人は、ライブ・イベント情報&チケット
※該当曲を聴ける保証はありません。