いうまでもなく、長崎の戦災をテーマにした曲。
直接的に原爆を指す表現は一切出てこないものの、悲痛な歌詞とメロディーに、誰もがそれを連想せざるをえない。
曲調も、歌詞も、歌声も、何もかもが、重苦しい雰囲気を醸し出している。
とても、とても美しいメロディーラインの曲なのだが、、、とにかく重い。
高校の修学旅行で、長崎の原爆資料館に連れていかれた時のこと。
その直前に立ち寄った文明堂*1の工場見学にて、土産コーナーの試食カステラを、出て来るそばからハイエナが群がるがごとく皆で食い尽くし、物欲しそうにお代わりを待つ──だれも口に出して催促はしないのだが、試食コーナーの前に雁首揃えて立ち尽くす高校生たちの無言の圧力により、しぶしぶお代わりがもたらされる──など、行く先々で迷惑をまき散らし、道中のバス車内でもガイドさんの話もろくに聞かずに散々ふざけあっていた、我らバカ一同だったが、原爆資料館を後にした車内の、重苦しい空気と言ったらなかった。
それまでの騒々しさが嘘のように、誰も一言もしゃべらないんだもの。
罰当たり連中にトドメを刺すように、ガイドさんが哀しく美しい歌を歌ってくれた。
知らない曲だったが、ひょっとするとこの歌だったのではないかと、今になって思う。

ネットの拾い物(だめじゃん)
ところが、サビの導入部分から曲調が一変する。
「♪慰め、励まし、長崎の・・・」
先の見えない暗闇の中に、希望の光があふれだすように。
薄暗い谷あいから平地に歩み出て、急に目の前の視界が開けたような、そんな美しい景色がぱあっと眼前に広がる。
この展開の見事さ。いったいどうやったらこんな芸当が出来るのだろう。
しかし、幻のように眼前に現れた希望の光は、ほんの、ほんのつかの間のこと。
サビの終わりから間奏にかけての刹那に、すぐに世界は暗転してしまう。
再び重い雰囲気の中に世界は覆われてしまう。
そんなことをただ何度か繰り返し、救いの手も差し伸べられないないままに、おごそかに曲は終了する。
そんな奇跡のような煌めきが起こるのは、曲中に何か所かあって、ひとつは歌いだしの直前、ひとつはサビの直前。
さり気なくて聞き逃してしまいそうな瞬間的な技だけれど、なにかひらめいた効果音のような、小さなピアノの和音をきっかけにそれは起こる。
瞬間的なの転調*2による
暗雲が掻き消えるような爽快さをあらためてご堪能あれ。
これぞプロの技というものだろう。
名曲・聴きドコロ★マニアックス
この時代の曲にはしばしばあることだが、同じ曲でも、聴くレコードによって極端にアレンジやテンポが違ったり、場合によってはまったく聞き覚えのないパートが入っていたりすることがある。
この曲については、2番と3番の間に“幻の3番”が存在するバージョンがあるという(個人的には未聴)。
以下幻の3番歌詞
「♪つぶやく雨の ミサの音 たたえる風の 神の歌
耀く胸の 十字架に ほほえむ海の 雲の色
なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る」
得てしてこういうものは、あとからオマケ的に追加されたものというのが相場だが
どうもこの曲に関しては、最初から3番があったらしい。
カットされたのは、SPレコード*3の収録時間の都合上だという。
そういえば、やはり藤山一郎の『東京ラプソディ』(1936年/)では、
およそ4分が上限というSPレコードの都合上から、SPレコードでは全速力の駆け足のようなテンポで収録されている。
表題曲については、いくらなんでもアップテンポにして軽快に乗り切るというわけにはいかなかったのだろう。
陽気な『長崎の鐘』なんてありえないから、やむを得ず3番をカットした、ということなのだと思う。
意味が知りたし★ここんとこ 深読み&ななめ読み
「長崎の鐘」
爆心地近くにあった浦上天主堂の鐘楼のことといわれている。
原爆で被災して崩壊した姿が保存され、現存している。
が、つまりはすでにこの鐘は決してふたたび鳴ることがない。
心の中で鳴っているということだろうか。
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