ねぇよ!
反射的に突っ込みたくなるくらい強烈な、
そんな問いかけから歌はスタートする。
「♪みちに倒れて 誰かの名を 呼び続けたことは ありますか?」
すごいね、これ。
名作と呼ばれる小説の多くは、
その書き出しが最も印象的だったりするが
それらに勝るとも劣らぬ書き出しだ。
しかもこいつは鉄板の自虐ネタときたもんだ。
問いかけの裏には、自分にはあるぞ!!
という主張がしっかり入っている。
もう、これはどうあっても実話であってほしい。
子どものころ、ダダこねて道端で泣き叫び
親を呼んでました、えへ。
なんてしょうもないオチに逃げないでほしいと願う。
すごく痛いけど、同情されることすら拒絶するくらいの
強烈なエピソードは、それだけで真実味を帯びてくる。
それがたとえ作り話であったとしても。
ついでだから、自分のマジ鉄板自虐ネタを披露してみよう。
自分のリアル誕生日に ひとの誕生日会に呼ばれて
行ったことが ありますか?
俺にはあるぞ!!(どーん!)*1
余談はともかくとして、
この私小説*2的な歌詞も
詩というよりは、文体的にも表現的にも小説に近い。
冒頭の歌詞の漢字の振り方にしたって、
「途」に倒れて誰かの名を・・・、と来たもんだ。
道端に倒れこんで、立ち去っていく相手の名を
姿が見えなくなるまで泣き叫び続けている状況、
ではなく、
途方に暮れて、気が動転してひとつのことしかできない、
ただただ相手の名前を呼ぶことしかできない状況。
どちらも、恥も外聞もない状況に変わりはないのだけれど
たった一文字の違いだけで、前者の大いに芝居じみた感じではなく、
後者の、もっと心象的な、内面的な情景を
思い浮かべるに至る。
唄い出しの一行だけで、ここまで書けたよ!
名曲・聴きドコロ★マニアックス
こんな内容なのに、リズムは跳ねるような「♪ズンチャカチャッチャ」。
それでいて単調な繰り返しのリズムに終始している。
単調、というよりも淡々とした、といった方がいいかもしれない。
そして『時代』(1975年/ by)の、
取って付けたようなオープニングのように
変にドラマチックにしていないあたりが、
達観した冷めた感じを出していて、
暗鬱な雰囲気の中に、どこかシニカル*3な響きを持たせている。
というより、なんとなくだけど、
ラテン風というか、アラビアン風というか
そんなエキゾチックな雰囲気を持っているように聞こえない?
もはや、頭の中で結びついてしまった
歌詞とメロディーを分離することはできないけれど
知らずに伴奏だけを聴いていたとすれば、
寂しげな中に、どこかコミカルな感じを見出せたと思う。
サイレント映画の伴奏曲のような。
サーカスのちょっと寂しげな音楽のような。
意味が知りたい★ここんとこ 深読み&ななめ読み
「他人事に言うほど 黄昏は 優しい人好しじゃ ありません」
他人事のように、冒頭の問いかけを発してみたものの、
黄昏(むなしさでやりきれない気持ちのことか?)は
募るばかりで和らいでくれない。
「あなたは憂いを 身に着けて 浮かれ街あたりで 名を挙げる」
恋に破れた寂しげな雰囲気を身にまとい、
歓楽街で、物憂げな感じを逆に目立たせている。
そんなことで果たしてモテるのか? 不明。
「誰が名付けたか 私には わかれうた歌いの 影がある」
名付けたか、と言っていることから、
この影というのは、「わかれうた歌い」というアダ名のことを指している。
不名誉なアダ名が影のように身にまとわりついているのか、
陰で付けられたアダ名なのか。どちらかだろう
「♪恋の終わりは いつもいつも 立ち去るものだけが 美しい」
「♪残されて 戸惑う者たちは 追いかけて 焦がれて 泣き狂う」
滅びの美と、無残。
同じことなのに、立場の違いで逆の結果になる。
決して一方的にフラれた歌ではないのだと思う。
「私の癖なのか」
と歌っていることからも、
お互いの心情のもつれからの結末なのだろう。
捨て去ることができた者と、捨て去ることのできなかった者の違いか。
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